2017年1月16日月曜日

誕生日の思い出

私の両親は、子どもの誕生日にホールのケーキを買って誕生会をしてくれた。
子どもが少し大人になってくると、生クリームと苺のケーキからいろんな種類の
ケーキになって、珈琲や紅茶をいれて一緒に食べる。
私たちは、冬の生まれなので、ケーキはいつもこたつで食べていた。
妹の誕生日は元旦で、
クリスマスシーズンから、お歳暮でもらったり、プレゼントでもらったりした
ケーキを食べながら、お正月にも誕生日ケーキを食べる習慣が何年かあった。
私たちはいつもお祝いしてもらうけれど、(父の日と母の日は別にして)
誕生日の時は何もなかった、しなかった。

私が小学生の頃、妹と2人で母の誕生日の時に
父に「お母さんにプレゼントはないのか」と言ったことがある。
言ったその夜だったか、次の日の夜だったか、
夕ごはんのあとに会合(町内会や農協の会議がよく夜にあった)に行った父は、
母へのプレゼントにペールグリーンのカーネーションの大きな花束を持って
帰ってきた。
大きな花束が現れて、母も私たち3人もおどろいた。

でも後から知ったが、母は父から時々プレゼントをもらっていたようだった。
母はよくイヤリングを落として、「お父さんにもらったものなのに!」と言って
あわてて探していることがよくあった。
母がもらったイヤリングや指輪で、みつかったものは私のところにある。


震災が起きて家族を探していた時、母の誕生日を迎えた。
同じ家に一緒にいた父はあきらめていたけれど、
私はまだ生きていてほしいと思って迎えたことを憶えている。


震災から一年が経って、その時にいた震災で集まったグループから
サプライズを受けたことがある。
実は、そのサプライズのことは事前に知ってしまっていて、
主宰には「かわむらちゃんはひとりじゃないよという気持ちを込めて、やりたい」
と言われた。
事前に知ってしまったこともあって、そういう企画はやめてほしいと言ったのだが、
「どうしてみんなの気持ちをむげにするようなことを言うんだ」と怒られた。
私はもうすでに感覚の溝が深まっている状況を知っていて、
特別な共同体の中の高揚感のような現象に冷めていた。
震災で生まれた団体は大体2年で解体し、
5年目くらいで震災に関連する物事や特需は終わる。
生活の中に、テレビで様子を見ていた人と津波を体験した人がまざっている。
誰もが知らない顔をして過ごしている。
体験や気持ちを共有しにくくなっていく。
そのときに「ひとり」が始まってくるのだ。



妹の誕生日は元旦で、
震災以降も3年くらい父のもとに集まった叔母や従兄弟と一緒にケーキを食べた。
新しい家ができて、父に新しい生活が始まって、親戚の集まりも少なくなってから
すっとなくなった。

父が車を持ってから、誕生日に革製のキーケースをあげた。
私がこれまでプレゼントをしたもので、一番使ってもらっている。