2013年3月25日月曜日

春の日、マキアート























「私はあっけさんと同じ26歳になりました。
 毎年、そちらに伺うことは難しいですが、
 ここの海もつながっていると信じて
 3月になるとあっけさんの好きだった
 スタバのキャラメルマキアートを
 海に流します」


新聞の震災関連の連載記事に載って、
ホームページでも見られるというので
妹と弟の友人たちにもお知らせした。

私も父も知らない、彼女、彼らにとっての妹と弟の姿があって
過ごした時間の思い出話やどんな学生で、どんなことをしてきたか
メールでたくさん教えてもらった。

弟はまだSNSの世界では生きていて
誕生日になると自動的にお知らせをしてくれる。
私や彼の友人がメッセージを残す。

彼岸の墓参りでは、キャラメルマキアートが供えてあった。
きっと妹の同僚か友人の誰かがおいてくれたのだと思う。



3月はざわざわとしている。
一年、二年と区切るように、あの日を確かめる。
区切られるような、区切るようなことではなくて
いつもそこにあること。



お墓へ会いに行くときは、旧河南町の母の実家に寄って
祖母と一緒に行くことにしている。
山と田んぼの中にある、この町にも仮設住宅ができた。
仮設住宅を見ながら針岡生まれの祖母が
「おらほの人だち、みなこごにいるってよ。
 みっちゃんもいるって言っでだっけ、近くなのに挨拶にも来ねぇ」と言う。
仮設住宅は住宅地から少し離れて建っている。

気持ちの距離をとったような、距離をとってしまうような。



仮埋葬場はサッカーコートに戻っていて、
少年たちの何チームかが芝生の上を走っている。
いつも通りがかると、ここにたくさんの人が眠っていたなと思う。

父が「上釜に信号ひとつもながったけど、やっと一個ついた」
と言って、その道を通った。

私の家は海から500mも離れていない。
目の前に工業港があって、今まで一度も津波の話を
聞いたことがなかった。
川村に嫁いだ祖母と母は山生まれで海の話は知らない。
川村の家はずっとここに住んでいたけれど、話をされた記憶がない。
子どもの頃、津波警報が鳴ってニュースになった時には、
父は見に行った。今なら考えられないだろう。
地震の訓練はあったけれど、津波の訓練はなかったような気がする。

まだ遺体を探している時に、
「島や浜の人は逃げ方を知っているってね、
 こごの人は知らね」
と言われたことがある。

どうして、ここには津波の話がなかったのだろう。
どこかで消えてしまったのだろうか。


家の隣の幼稚園も解体されて
どこに何があったかわからなくなってきた。
道路から見ると、今は瓦礫置き場が
自分の家の場所を示す目印になっている。

まだどこかで生きているような気持ちになりながら
私は亡くなってしまった人たちのことを
どんな時間を過ごしてきたかを
明らかに少しずつ忘れている。


変容していく風景とともに。



2013年3月25日
川村智美
Homecoming