2013年12月31日火曜日

骨と写真。残るもの





















お盆に祖母に会ったとき、
祖母は戦争の時の話から津波の時の話まで
記憶がいったりきたりする。

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終戦の時、おじいさんもおんつあんも兄貴も死んだ
(この間)寺のおばさんが死んで、あっちでみんなに怒られでってぇ
裕子がかだってやるって言っでだ
みんな売ったんだもの、おじいさんのもの
おじいさん「りえ子、こういうわけで引っぱられで」って言われだがら
「あなたのもの何もなくなったんだっちゃ。ごはん食わせでで」って言った
人の屋敷に入って勝手なごとしで、好かねぇごど
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祖母が好きだったおじいさんのものを売った人がこの間亡くなって
家族中から嫌われていた人で
母(裕子)もずいぶん怒っていたらしく
死後の世界でずいぶん言われているだろう
とのことだった。

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野蒜の木村さんは見てる間にもってがれだ
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津波に戻る。祖母の実家があった針岡
大川小学校の近くで北上川から逆流してきた波にのまれたところ
富士沼という大きな沼があり、海の水も入った

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山のほうの深いほう
そこに人がいるんだって。
仰向けになって泳いでいる、わけぇのがいで
人が死んでるから(水の中に)顔を向けない

シジミ取りの人だち、骸骨取れるってぇ
だぶだぶ流れてくるって

豚など生きているまま海さ行っだもの
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去年のお盆もシジミの話をした。
あれから、骸骨がいると言われるようになった。
震災から新たに伝わる話を調べている級友のDに骨の話をしたくて
会いに行こうとしてできず、手紙を書いたら電話をくれた。

看護師の彼は気仙沼で津波を見て、命からがら人を運び
泥の中から薬を必死に取り出し、人に尽くしながら
身近にある死を、落ち込んでいく友人を、静かにみている。

2年前に会ったとき
「看護師って「みる」仕事なんだよ。」って言っていたのが
印象的だった。

気仙沼の話や近況を報告し合いながら
しばらく骨の話をする。
Dは震災のあとから生まれた話を聞いて
伝承というのは骨からの再構成なんじゃないか、と。

私が
「そういえば、うちでは火葬をして残った骨は
 骨壺ではなく麻袋に入れて墓に納めている。
 土に戻るようにしているんだよね」
と言うと、Dは
「お墓参りっていうのはさ、骨を見てくるようなもの
 じゃないかと思うんだよね」と。
「あ!それ、わかるかも!」
合点のいく思いに少し興奮して話してしまう。

一人で墓参りに行ったとき、どうしても会いたいなと思い、
骨が入っている部分の蓋を開けてみた。
すると並んだ麻袋の上に新聞記事が置いてあった。
その記事は家が震災の取材をされたもので、おそらく父が入れた。
大事なもの/知らせたいものは骨と一緒に入れておこうと、
父も同じの気持ちをしていたのかなと思った。
骨はその人そのものだ。

Dは
「つらい目にあった人だけが語り継ぐものではないと思うんだよね
 街中は同じように流されて、もう忘れているよね」
「記録していることが映像の力だと思うようになってきている
 残るものとして骨と写真は似ていないか」と言う。


残るもの、残したもの、残されたものしか
明日を持っていない。
明日いる人に伝えることができる。

今、聞き取っている話や家の過程を撮っていくことが
明日、またその明日の何かになるだろうか。


2013年12月31日
川村智美
2012年2月3日の日記_気仙沼のD

2013年8月22日木曜日

未来への速度

2013年8月22日の家の写真(→3ヶ月前)





















家があった場所はテトラポットをつくる場所になって
がらりと変わっていた。
土地を貸すことで少し収入になるようだった。
何も聞いていなかったせいか
あまりの景色の変わりように
もともとあった自分の記憶もそがれるような
気持ちになる。

父は遺影を押し入れに隠したまま
未来に進んでいきます。

私はどうも未来への速度についていけていないようです。

隣の家は盛り土がされていて
どんな場所だったか思い出せない。
向こうにあった瓦礫の山はなくなっていた。























泥が取り除かれた頃、家のあった場所に
誰かがその辺にあったブロックを
花立てにしてくれて、花を置いていってくれた。
私も毎度花を持っていった時には生けさせてもらっていた。

テトラポット業者が入って、ブロックがぽいっと
家の前にあった神社のあとへ捨ててあり、
一人で勝手に憤慨し
その場所でもいいから立てておいて
花を置いてきた。





2013年8月22日
川村智美

2013年7月12日金曜日

無口の中身

2011年3月9日の家の写真


















2011年3月13日頃、友人に送ってもらった衛星写真




















2013年5月5日の家の写真





















福興会議
のサイトが新しくなったことに伴い
「このあしもとにつづく」もこの新しい場所に引越しを
することにしました。

引越し作業をしながら、読み直し、
記事を書こうとこれまでを振り返ると、
とても大変な気持ちになりました。
自分で自分のかさぶたをはずして
傷を開くような作業でした。


□最近のこと
今年から仕事環境が変わり、新しい環境の中では
私は「仙台の人」になっています。
新しい環境の場所も津波被害があり、避難所になりました。
避難所の生活や市政の違いはそれぞれ全く異なり
これまでに聞いたことのない話を伺いました。

「仙台の人」、沿岸の別の街からは仙台は今では
被害が少ない街と見られているように思います。
仙台も津波被害があった場所ですが、街中が日常を
取り戻しているので、そのような見られ方になるのでしょう。
私の出身は石巻で家族も家も亡くしていますが
今の住まいが仙台なので「仙台の人」ということになっています。
震災の話をよく伺っていると、
「あなたは仙台にいたのだから大丈夫だったでしょ」
というような判断を最初にされます。
そういう場合は「仙台の人」として、話を聞くことにしています。

被災は今住んでいる場所によるものではないこと
被害の大きさがショックの大きさではないこと

通電が早かったところはテレビによって津波の状況を
いち早く知り、何度も繰り返される映像で
心を痛めた人も多かったと思います。
思い出して何も言えなくなってしまう人もいます。

一方、避難所対応をした場所では特に
今、日常が落ち着いた中で振り返りを初めてしていて
さまざまな思いをよみがえらせ、
自分のあしもとしか見えないくらい
あふれている状態です。

あふれた気持ちはうす闇のような中でさまよい、
ぐるぐるとまわっているように見えます。

あふれた気持ちを聞き出していると
自分の言葉で「語り直す」ことが今、必要なのではないか。と
それは自分で発することはむずかしく
誰かに糸を引いてもらうように聞き出してもらうこと。

また遠くへ引越しをされている方もいて
今の場所性は薄れていると思います。
それぞれがそれぞれの喪失を抱えている中、
気持ちの時差が距離を広げているように思いました。

その距離を縮めるにはどうしたら良いのだろうか、と
時に悩んでいます。



□母の母の記憶メモ
・田んぼ、七反歩を麦にして、麦踏み嫌だった。鶏っこの家に売った。
 まむし、黒いのいた。
・(10年前に亡くなった)おじいさんはレコードをたくさん持っていた。
 「あの人はもの持ちがよかった。でも亡くなった時にひろゆきに全部捨てられた」
・「地震のどきに前山まで井戸の水くみに行っでがら右腕いでぇんだ」
・「水くみしでだら、「裕子ちゃん死んだんだって」って言われで
  信じられない。ひでぇひとだちだ」



□家のこと
6月の始めに三回忌を行いました。

式とは死の体験にふれること。
同時にその人の生の時間に触れること。
そして家族の時間を共有すること。
死を共に想うことだ。

父の家では未だに遺影は祖父と祖母しか飾られていない。
家を出るときは茶の間の電気をつけて出る。
(人がいそうな気配を出したいのだろうか)

父は母の母に母と妹と弟の話をされることを好まない。
思い出して大変な気持ちになってしまうことを恐れているのだと思う。
その気持ちはとてもよくわかる。
祖母は話して思い出して、母の子ども時代にまでさかのぼって話して、泣く。
一緒に思い出を話したいのだ。
その気持ちもとてもよくわかる。




ふつうの日常のとは何か。
失ってあることがふつうになってしまった。
ふつうというのは何なんだろう。

震災は当たり前にあって、
誰もが被災者になりえ、支援者になりえる。
震災は起きた後の話ばかりになるけれど
これからの話でもある。


震災後の2年と数ヶ月の間、
震災によって得たいろんな出会いがあって
楽しいこともあって
首をかしげるような事柄もあって
やっぱり「絆」とかはわからなくて
私や家族は全体的な気持ち雰囲気よりも
細々とこれからどうやっていくか、みたいなことが重要で
人のつながりはとてもかけがえのないものだけれど
身近にいた人が亡くなって亡くなったことが
未だに信じがたいことで
それが徐々にわかるようになるのかな、というところ。
わかりたくないような気もする。



□2年くらいでわかったこと
震災後、被災した場所で
復興と名のついた、いろんなイベントやプロジェクトや
時にはアートで、歌で救おう、みたいなこともあったけれど
それらは(直接的には)何も救わないし、復興しない。
もしかしたら、そのイベントによって知り合う機会も
あるかもしれないし、良くも悪くも話題にはなって
会話の種にはなるかもしれない。
一過性のお祭りのような連帯の時間よりも
紡ぐような時間と会話をする時間をつくること、
例えば、歌を聴くだけではなくて、会話をすること、
となりで身近で気持ちをシェアする時間をつくることが
大事なことだなと思いました。
種を植えて水をあげて育てるようなプロセス、
それは人と人でしかできない、会話を重ねて
できること。



2013年7月11日
川村智美

2013年3月25日月曜日

春の日、マキアート























「私はあっけさんと同じ26歳になりました。
 毎年、そちらに伺うことは難しいですが、
 ここの海もつながっていると信じて
 3月になるとあっけさんの好きだった
 スタバのキャラメルマキアートを
 海に流します」


新聞の震災関連の連載記事に載って、
ホームページでも見られるというので
妹と弟の友人たちにもお知らせした。

私も父も知らない、彼女、彼らにとっての妹と弟の姿があって
過ごした時間の思い出話やどんな学生で、どんなことをしてきたか
メールでたくさん教えてもらった。

弟はまだSNSの世界では生きていて
誕生日になると自動的にお知らせをしてくれる。
私や彼の友人がメッセージを残す。

彼岸の墓参りでは、キャラメルマキアートが供えてあった。
きっと妹の同僚か友人の誰かがおいてくれたのだと思う。



3月はざわざわとしている。
一年、二年と区切るように、あの日を確かめる。
区切られるような、区切るようなことではなくて
いつもそこにあること。



お墓へ会いに行くときは、旧河南町の母の実家に寄って
祖母と一緒に行くことにしている。
山と田んぼの中にある、この町にも仮設住宅ができた。
仮設住宅を見ながら針岡生まれの祖母が
「おらほの人だち、みなこごにいるってよ。
 みっちゃんもいるって言っでだっけ、近くなのに挨拶にも来ねぇ」と言う。
仮設住宅は住宅地から少し離れて建っている。

気持ちの距離をとったような、距離をとってしまうような。



仮埋葬場はサッカーコートに戻っていて、
少年たちの何チームかが芝生の上を走っている。
いつも通りがかると、ここにたくさんの人が眠っていたなと思う。

父が「上釜に信号ひとつもながったけど、やっと一個ついた」
と言って、その道を通った。

私の家は海から500mも離れていない。
目の前に工業港があって、今まで一度も津波の話を
聞いたことがなかった。
川村に嫁いだ祖母と母は山生まれで海の話は知らない。
川村の家はずっとここに住んでいたけれど、話をされた記憶がない。
子どもの頃、津波警報が鳴ってニュースになった時には、
父は見に行った。今なら考えられないだろう。
地震の訓練はあったけれど、津波の訓練はなかったような気がする。

まだ遺体を探している時に、
「島や浜の人は逃げ方を知っているってね、
 こごの人は知らね」
と言われたことがある。

どうして、ここには津波の話がなかったのだろう。
どこかで消えてしまったのだろうか。


家の隣の幼稚園も解体されて
どこに何があったかわからなくなってきた。
道路から見ると、今は瓦礫置き場が
自分の家の場所を示す目印になっている。

まだどこかで生きているような気持ちになりながら
私は亡くなってしまった人たちのことを
どんな時間を過ごしてきたかを
明らかに少しずつ忘れている。


変容していく風景とともに。



2013年3月25日
川村智美
Homecoming

2013年2月14日木曜日

23ヶ月と3日目

お盆からの半年の間、
何回か祖母に会い、母の話をした。
何回か一人で家に行った。
一年ぶりにアウトドア義援隊のみなさんに会って
一緒に作業をした。

家のことで期限に合わせて決めることがあった。
遠ざけている問題を一旦引き寄せて
父ともめて、お互いに悲しみ、
傷にふれ合わないようにしながら
親戚を交えてご飯を食べたり、
父が作ったトマトをもらったりしている。

今年は遠ざけていた問題「継ぐ/継がない」
ことについて少しずつ考えなくてはならない。
二分した答えだけではないと思うが
時間に限りがある。


こうやって真っ白いテキストエディットに
向かっていても何も思い出せないが
バスや徒歩で移動しているときは
子どもの時のことや妹のことや母のこと
家のいろいろなことを思い出す。
思い出しては歩きながら泣いてしまっている。

自転車に乗ると考えることをやめてしまうので
何かを考えたいときはバスか電車か徒歩がいい。

私は家のことを思い出したくて歩いているかもしれない。


祖母が私に語り出すように
私はここに書き出している。
父はやっぱり話したくないようだ。
遺影も押し入れにしまっている。

私たちはそれぞれ孤立して孤独だ。


祖母には祖母だけの娘と孫がいて
父には父だけの妻と両親と子どもがいる。
それぞれ大事にしている記憶がある。

話せばあふれ出す感情がある。
普段はさわらないようにしている、
言葉にできないようなものが
こころの中に押しとどめられずに
あふれ出す。
こころの中にたまっていくことも
あふれ出ることも
くるしい。
溺れているようなものだ。

言葉にできないようなものを
話して目の前においておきたいと思う。
目の前において言葉になるまで
考えたい。

そうやって少しずつ、
なくなったことについてわかりたい。

水面に石を投げるようなことだが
人のようなものがいるようでいて
何もないところが向き合える場所に
なるかもしれないと思った。



2013年2月14日
川村智美

2013年2月13日水曜日

母の母と母の話/年末のこと























「裕子持って来た米は虫がついて捨てた」

祖母の家に行って挨拶をして一言二言近況報告をすると
いつも母の話が始まる。
大掃除を手伝おうと思って来たけれど
「掃除しねえで茶っこ飲め」
と言われる。

米の話をして
「何もかにも裕子が持って来た」
と言って止まった。

泣くかと思ったが思い直したようで
堰を切ったように話し始めた。


ひとの葬式でわかったって人
「裕子ちゃん死んだんだって」って言うんだよ
ひとに簡単に死んだって言うひとあるめぇ


あの頃は毎週のように葬式があった。
葬式が人と会う場所になっていた。
祖母のいる内陸の場所では、「ふつう」の葬式で
人づてに話された津波で死んだ話が葬式伝いに
誰かにたどりついて、祖母までまわってきたのだ。
人づての人づての話は
娘が死んだ、ということを平気で話される。

死は平気で話される。普段も。
でも津波は少し違う。


年をとったらまたハワイにもう一回いくんだって言ってた
裕子、本家嫌いで。死んでも行かないって言ってて先に逝ったなぁ
あいつ、晃弘も朱美も死んだってわかってたのがね
朱美は死んだっけそっくりだ。(川村の)おじいさんに

朱美生まれたとき、あそこの(川村の)家は堅いから
天麩羅揚げさせて蕎麦茹ででかせでから
病院行ったんだぞ


朱美は元旦生まれで、母はもう産まれるというときにでも
大晦日の嫁の務めをしなくてはならなかったようだった。


晃弘が生まれたとき朱美が泣いて離れなかったと
潤一さん(父)、一晩車走ってたと
(昔から)ががから離れなかったんだ
ついでっだんだっちゃ


祖母は泣きながら話す。私も泣きながら聞く。


「おら、ひとりで誰も語るひといねえんだぞ。
誰も話聞いてくれねえんだぞ」


ここは
三月のあの日、地震があって
ライフラインも止まっていて
でもまさか津波が大変なことになっていて
娘や孫が流されるなんて思ってもいなかった。
「大きく揺れて」でも、建物や家の中での被害はなくて
知らない間に大事な人が亡くなっていた。
目に見える喪失がなくて
まわりの感覚は海の近くより早く日常にもどった。

祖母はあの日何が起こっていたかわからなかった。
遺体安置所でみつけて
土葬をして
土から掘り出して
火葬をして
葬式をして
初盆を迎えて
でも感覚がつかめない。
つかめないけれど、この世からなくなってしまった。


地元の新聞紙は震災の連載をしている。
テレビはもう何も語らなくなっただろうか。
インターネットも携帯電話もない家だ。
手に取る情報は限りなく少ない。


淡々と過ぎゆく中で
祖母は一人で毎日ずっと、
じっとなくなったことをみつめて
誰にも話せないでいる。




2013年2月13日
川村智美