2012年7月7日土曜日

荒野にて
























先月の10日に一周忌法要をした。
お寺は家の近所だったが、波の影響が少なく建物や墓は残っていて
修繕も終わっている。

家があった場所に枯れた花束がささったまま倒れているブロックがあった。
誰かがブロックを花器代わりにして花をたむけてくれたのだろう。
家の周辺は瓦礫置き場があるだけでとくに変わっていない。



一年が経って
被災したまちには起業する会社やNPOやまちづくりの何かなど増えたように思う。
お祭りやカフェやたまり場やイベントや企画がいろいろあって
それが「まちのために」「子どものために」と旗を掲げていることに
時々違和感を感じるものがある。

もともとそこにあった生活があって
震災にあった生活があって、泥と一緒に過ごした生活があって
なくなったものがあって、
なくなったことも生活の一部としてあるから今の生活がある。

そのまちの生活はまちに住んでいる人のもので
そのまちを何とかするのは、そのまちに住んでいる人で
その住んでいる人はきっと「自分たちのために」にする。

「~のために」の命題は結局企画者自身のためではないだろうか
と思えて違和感があるのかもしれない。


私はもう「~のために」というものに疲れてしまった。




家やハウスがあった場所は今は雑草が青く茂っているが
震災から一週間経っても、まだ水が引いていなかった。

棒を持って泥の中を歩いて、遺体や家を探しているときに
父が「黒いセカンドバックを探して」と言った。
「おじいさんの葬式のお金をおろしておこうって言って100万円入ってたんだ」と。
あたり一面、ばらばらになった家屋や泥や港の倉庫にあった肥料で埋まっている中で
誰もみつかっていない中で、何を言っているんだろうと思いながら
毎日毎日みつからなくて、何を探していいか混沌としているなぁと
どこか冷静な自分がいたことを覚えている。
父は目の前で家族が流されて、すでに諦めていた。どんな希望も持っていなかった。

あの時は父も私も戦士のように日日と戦っていた。

一日二回、朝と夕方に遺体安置所に行く。
写真になって確認できるようになることを「遺体があがってくる」と言って
写真を見るだけで水の中だったのか泥の中だったのか火事にあったのかがわかるようになる。

一年経った今でもよく覚えている。みんな一人ひとりの顔と泥のにおい。
毎朝、みつかった時の家族の顔を一人ひとり思い出して
生きていたときに何を話していたかを思い出して
ひとしきり泣いてから外に出かける。
日中ふと思い出してしまうと
バスの中でも街を歩いていてもどんな場所でも泣いてしまう。
思い出しているときはずっと泣いていて
泣かないようにすることがむずかしい。

ずっと、生きている間にできなかったことを悔やんでいる。

先日、夢に妹が出てきて一緒に住まないかと話をした。
近年、家から離れて暮らしていたせいもあって
うっかり家族がそのままいるものだと思ってしまう。
私が歩く仙台はふつうで、あの日の出来事のほうが夢のようだ。

喪失によってできた空洞は共有できない。
「なくなった」という日常が空洞を満たしていく。
その空洞の中で途方に暮れる。
それでも世界は進んでいるので、何事もなかったような顔になって
何事もない日常のふつうの中でまた途方に暮れる。



ただ何か道標がほしいわけではなくて
途方に暮れながらも、じっと自分の足が歩きたくなるのを待っている。



2012年7月7日
川村智美