2012年9月9日日曜日

お盆のこと

ーほれ、ここら昔の家 いっぺー建ってて ふぐしたんだ
 もうだれも住まねぇ だれも来ねぇっちゃ こんなどこ

ー今年は大川でシジミいっぱいとれんだど
 人いっぺー死んでっちゃ
 おら食いだぐねぇ

ー今日、雄勝で花火って言っでだなぁ
 「あぁ 三カ所でやるって言ってましたねぇ 今日は松島かもしれませんね」
 あけみ 松島の花火に浴衣 着て行ったっけぇ
 あけみ 死んだどき おじいさんにそっくりだったなぁ
 ゆうこが誰に似だんだべ 誰に似だんだべ といっでだけど おじいさんだったなぁ
 死んだら顔がしがぐぐなって、そっくりだったなぁ



ゆうこは私のお母さんで祖母の娘だ。

お盆に移動手段がない祖母を連れて墓参りに行った。
祖母の実家は針岡というところで大川小学校の近くである。
山間の集落で、まさか津波が川から来るとは思っていない。
ほとんどの家は壊してしまったようだった。
こんな田舎には誰も来ないと、新しく家を建てる人も
少ないようだった。
祖母の実家は近年は誰も住んでいなかったこともあって
解体されていた。

移動する車の中で祖母はずっと妹や弟や母のことを話していた。
祖母は私の叔父にあたる息子と二人で暮らしているが
叔父はほとんど家におらず、祖母はひとりの時間が多い。
ひとりでいる祖母は誰にも話すことができずに
誰かがいればとめどなく思い出したことを話し始める。
山の中で情報もなく、いきなり母がいなくなった祖母は
今、いなくなったことを感じて、時間の経過とともに
どんどん穴が大きくなって、何でも話したいようだった。

その反対に
父はあの日のことやあの日なくなったものについて
何も話したくないようだった。
震災のときも、話ながら気が狂いそうだと言っていた。
話してしまえば気が狂いそうになる、
悲しくなるのが耐えらない。

そういう大人がたくさんいる。

残されて、ひとりで生きていくことになった
生きていかねばいけなくなった
喪失を持ってさまよう人、喪失にさわらないでほしい人


家のあとに置いてあるブロックに線香をあげると祖母に
「お母さん、どこでみづがったの」と聞かれた。
「もう少しうしろだよ。中島技研っていうところだよ」
そう言うと祖母は泣き出した。鼻をすすりながら、今度は
「あきひろは、どこでみづがったの」と聞く。
「あきひろは一丁目、どこだったかな」
「あいづは泳いだんだべ、泳いだがら早くみづだったんだっちゃ」
そう言って、祖母はずっと泣いていた。
あきひろは水泳の選手だったからね。


あの時は、きっとまだ、本当に死んだという実感が誰も持てなかった。
ようやく、なくなったものの形が、感触が、あらわれる。

流された場所は草が生えて何もなかったようになっていく。
情報もまわりの日常も何もなかったように流れていてく。
まわりの感触の風化は一年経って急激に早まった。

何もなかったようになっていく中では、なくしたものを持ち出せない。
自分の中でどうしていいか、わからないまま抱えている。


祖母はこれからもっと思い出して話していくだろう。
あの日のことを繰り返し、あの日になくなったものを繰り返し話していくだろう。
話をすれば、母と妹と弟が話のなかでよみがえる。
何もなかったようになっていく中で、なくなってほしくなかった。




2012年9月9日
川村智美

2012年7月7日土曜日

荒野にて
























先月の10日に一周忌法要をした。
お寺は家の近所だったが、波の影響が少なく建物や墓は残っていて
修繕も終わっている。

家があった場所に枯れた花束がささったまま倒れているブロックがあった。
誰かがブロックを花器代わりにして花をたむけてくれたのだろう。
家の周辺は瓦礫置き場があるだけでとくに変わっていない。



一年が経って
被災したまちには起業する会社やNPOやまちづくりの何かなど増えたように思う。
お祭りやカフェやたまり場やイベントや企画がいろいろあって
それが「まちのために」「子どものために」と旗を掲げていることに
時々違和感を感じるものがある。

もともとそこにあった生活があって
震災にあった生活があって、泥と一緒に過ごした生活があって
なくなったものがあって、
なくなったことも生活の一部としてあるから今の生活がある。

そのまちの生活はまちに住んでいる人のもので
そのまちを何とかするのは、そのまちに住んでいる人で
その住んでいる人はきっと「自分たちのために」にする。

「~のために」の命題は結局企画者自身のためではないだろうか
と思えて違和感があるのかもしれない。


私はもう「~のために」というものに疲れてしまった。




家やハウスがあった場所は今は雑草が青く茂っているが
震災から一週間経っても、まだ水が引いていなかった。

棒を持って泥の中を歩いて、遺体や家を探しているときに
父が「黒いセカンドバックを探して」と言った。
「おじいさんの葬式のお金をおろしておこうって言って100万円入ってたんだ」と。
あたり一面、ばらばらになった家屋や泥や港の倉庫にあった肥料で埋まっている中で
誰もみつかっていない中で、何を言っているんだろうと思いながら
毎日毎日みつからなくて、何を探していいか混沌としているなぁと
どこか冷静な自分がいたことを覚えている。
父は目の前で家族が流されて、すでに諦めていた。どんな希望も持っていなかった。

あの時は父も私も戦士のように日日と戦っていた。

一日二回、朝と夕方に遺体安置所に行く。
写真になって確認できるようになることを「遺体があがってくる」と言って
写真を見るだけで水の中だったのか泥の中だったのか火事にあったのかがわかるようになる。

一年経った今でもよく覚えている。みんな一人ひとりの顔と泥のにおい。
毎朝、みつかった時の家族の顔を一人ひとり思い出して
生きていたときに何を話していたかを思い出して
ひとしきり泣いてから外に出かける。
日中ふと思い出してしまうと
バスの中でも街を歩いていてもどんな場所でも泣いてしまう。
思い出しているときはずっと泣いていて
泣かないようにすることがむずかしい。

ずっと、生きている間にできなかったことを悔やんでいる。

先日、夢に妹が出てきて一緒に住まないかと話をした。
近年、家から離れて暮らしていたせいもあって
うっかり家族がそのままいるものだと思ってしまう。
私が歩く仙台はふつうで、あの日の出来事のほうが夢のようだ。

喪失によってできた空洞は共有できない。
「なくなった」という日常が空洞を満たしていく。
その空洞の中で途方に暮れる。
それでも世界は進んでいるので、何事もなかったような顔になって
何事もない日常のふつうの中でまた途方に暮れる。



ただ何か道標がほしいわけではなくて
途方に暮れながらも、じっと自分の足が歩きたくなるのを待っている。



2012年7月7日
川村智美

2012年5月13日日曜日

あなたならどうしますか

























ちょうど一年前、ようやく泥が干上がってジョンがみつかった。
やせ細っていたのに波にのまれたらアザラシみたいにまるくなって横たわっていた。

私の家はまた草原の季節を迎えた。
真っ新な、ただの土地になっても私はここを家と呼びたい。
一年経っても隣りの幼稚園はそのままだった。
墓参りに行くときは必ず家族が見つかった場所に立ち寄るようにしている。
家族が見つかる度に遺体安置所で渡される死亡届を手書きで複写した。
死亡届には場所や時間が書いてある。
見つかった場所は人の家の1階や公園や会社とばらばらでそこに行くと
家族に近づけるような気がする。




私の家は家とビニールハウスと管理していた神社と墓があって、縦長に広い。
復興計画によって産業用地として住めない部分と道路になる部分と
居住可能な部分と三つに分けられる。
管理していた神社はなくなって、墓はこわれたままだ。
一昨年までは石巻川開き祭りの前日祭としてこの神社で供養祭を行っていた。
供養祭を行っているからといって、公的に重要な何かではない。
公的に重要ではないが、今後については町内会や神社関係者の思いを汲みながら
考えていくことになると思う。
神社は元の場所に建て直すことは不可能に近く、父は私に
「(居住可能な区分にある)墓を直して神社をそばに建てて公園にするとか・・・」と
これまで誰かと話したことを着地点がないまま言った。そして私に
「あなたならどうしますか」と聞いた。

そこにはまた家が建つのだろうか。
わたしたちはまたそこに住みたいのだろうか。
その場所のこれからについて何にもリアリティが持てなかった。
戻ったところで戻らないのだ。

先日、明け方に母の母、おばあさんから電話があった。
「思い出したから電話した。たかちゃんが亡くなってね・・・」
私の知らない交友関係の話。きっと母は知っている。
母の日ということもあって会いに行くと、亡くなったのはたかちゃんではなかった。
いつの間にか夢の話になっていて
「鹿又のあねさまの夢を見だら智美が来たのよ。
 あねさまが裕子(母)どこ行っだのって言っでたわ。」

おばあさんの中で母と私が重なり始めている。


私の役割はきっと現状のままでは何の役にも立たないことだけわかる。
「あなたならどうしますか」という質問にはまだ答えることができていない。



2012年5月13日
川村智美

2012年5月9日水曜日

13ヶ月と25日目

























13ヶ月と25日目に墓参りに来た。
家のすぐとなりにある幼稚園の扉が開いていて
中に入ることができた。
この幼稚園は私が通っていたところは家の目の前にあり、
となりに移って新しく建て直したばかりだ。
基礎が地下1メートルくらい深かったとか
頑丈な鉄筋コンクリートであるとか
そのおかげで流されなかったとか
一年前は言われていた。
この幼稚園以外、周りの家、コンビニはほぼ流された。
二階に上がると床上1メートルくらいまで
波が来ていたことがわかる。
窓ガラスが割れていないので一旦上まで水が来て
引いていったのだろうかと推測する。
この二階には園児と職員と住民合わせて24名が避難していて
3月12日に救助された。

二階の窓からは私の家やビニールハウスが流されるところが
見えたのだろうか。


2012年5月9日
川村智美
2011年5月7日

2012年3月7日水曜日

このあしもとにつづいている



























5月から書いている言葉はその時その時のもので
今の私からはその時の身体感覚が薄れている。

街が戻って、何事もなかったように
ふと前の自分に戻っていく人もいる。
そして、あの日は「出来事」として収まっていく。
また
あの日から一年が経って、
何事もなかったように過ごしていた人は
パチンとはじけて闇にさまよってしまう。
見えないものはわかりにくい。


弟の友人から「晃弘は今どこにいますか」とメールをもらう。
お寺のお墓に眠っています。どうか会いに行ってあげてください。
と返すと「必ず会いにいきます」と言ってくれた。

仙台と石巻とお寺から式典のご案内をいただいた。
今、仙台に住んでいる父は石巻には行きたくなさそうで
そしてマスコミがいるのが嫌だと言った。
それでも追悼式典には行こうと思っているようだった。

イベントや特集で出てくる「3.11」や「一年」は
何かの区切りのような数字に見える。
その日が来たからといって区切りになるわけではないのに
その日が来たから区切りにしようというのか。

あの日の母からのメールは15時24分を指している。
でも私が受け取ったのは20時過ぎで
母は私にメールを送って30分後に流された。
母の時間と私の時間の間、
思いは通じなかった。

泥の中を歩き、泥のにおいをかいだ。
家という瓦礫の中に入り、家族を探した。
弟の写真がみつかるまで少しでも希望にすがりたかった。


3.11に何をしていたかが語られるように
数日後の3.11にはどこで何をしているかが沸き立つのだろう
あなたがどこで何をするか、より、
亡くなった方へそっとこころを寄り添うだけでいいのに


何かで形作られていく「3.11」の中、
出来事として形骸化してく「3.11」の中、
私はいつでもあの日の中にいる。


2012年3月7日
川村智美

2012年2月6日月曜日

シャネルの思い出

母は短大を出た後、2年間会社勤めをしてお見合い結婚をした。
結婚する前は化粧品や香水をよく買っていたが、母が母になってからは、
嫁入り道具である臙脂色の塗りの鏡台の引き出しの奥に追いやられていた。

その中に古びたCHANEL No.5があり、使われていないのにずっとあるので
「何であるの?」と母に聞いてみたことがある。
母は
「うちのお父さんはさ、香水はだめだし、化粧も嫌がっているんだけど」
「でも持っていたら、いつかつける日があるかもしれないじゃない」
と何かに期待するかのように言って、そして
「代わりにつけてもいいよ」
と私に言った。
その時の私には大人すぎる香りであるし、
時間の経過で成分が変わっていることが見てとれる。
女性としての母の期待が、思い出が、ぎゅっとこもっている香水瓶は
どこか寂しげな様子でしまわれていた。

その後、鏡台は私がいなくなった部屋で眠っていたのだが、
津波にあって、そのあとは欠片もみつからなかった。
私の部屋のものは何一つ、ピアノさえもみつからなかった。
私は今ままで帰っていた自分の部屋がどうだったか、忘れかけている。

毎月、もう更地になっている家に帰ると
自分の家がどうだったか思い出そうとするが、
すぐには思い出せなくなってきている。

誰かが家族の話をしてくれると、自分の家族を思い出せる。
父と私は共有している家や家族の記憶が少なくて
お互いに引き出し合うのがむずかしい。

気仙沼に行ったとき、友人が
「建物や道路が直るのが早すぎる」と言った。
「人のこころはその早さには合わない」

瓦礫と言われるのは、かつての日常である。
破壊された日常を見たくないという人もいる。
重機や機械で短時間に整備していくのは
システムとして必要かもしれないけれど
あっという間になくなって、更地になったその場所は
もはや、津波があったことも、
そこに住んでいたことさえもなくなったような感覚になる。

記憶がなくなっていることを知る怖さ


先々月、父が突然、台湾へ「気晴らしに」と叔父と一緒に旅行に出かけた。
帰ってきて、お土産にと渡されたのは、CHANELのパフューム。
たぶん、父は母のCHANELの香りを知らない。
ただ母がCHANELを父の言葉を真面目に受けて、つけていないことや
いつかその機会があるだろうと思っていたのは知っていたのだろうか。


私にとってCHANELは
母の香りになれなかったCHANEL No.5である。


2012年2月6日
川村智美