2011年10月28日金曜日

思いに追いかけられながら、けれども景色は風化していく
























彼について
農家の長男であった彼は東京の大学に進学したあと家に戻ってこなくてはならなかった。
私は彼の才能を思えば、家に戻らなくていいと思っていた。
今年の春、卒業するはずだった彼は、私の意見よりも両親の強い想いで、
彼は大学の先生に引き止められながらも仙台の国立大学の大学院に進むことになった。
けれども大学の卒業式を前に彼は波に連れて行かれてしまった。
あの日は祖父が危篤にならなければ、まだ友人たちと九州を旅行していた。



10月の半ばに弟の大学の卒業式に招かれて行ってきた。
普段なら日本武道館で二回に分けて行われる卒業式は大学のホールで
規模を縮小して行われた。
大学にとって彼は卒業生8000人の中で唯一被災して亡くなった学生。
大学の先生たちとの懇談で
震災の時のことを話され、大変さから話題は戦時中のことになった。
被災は比較するものではないが、震災と戦時は同列にも並べられないと思う。
そして「卒業式で一段落したいと思ったんです」と言われた。
「これで一段落できます」と。表情は少し安堵していた。


彼が一緒に旅行をしていた友人から
「引き留めれば良かった」「くやしくてしょうがない」
という思いの伝言を渡された。
そして先生たちも
「彼が東京にいれば彼だけでも助かったのではないか」と言った。


彼を東京に引き留めておけば良かった。
彼らを家から逃がせば良かった。

その後悔をいちばんしているのはその場にいた父だ。
悔やんでも悔やみきれない。
私はそれぞれから「渡されたことば」を父に伝えていない。


街中の各所で、建物は取り壊しや改修工事が行われるようになった。
流された家のあとには茫茫と草が生えて、傷跡は見えなくなっていく。
街が復旧していけば震災から復旧していると見えるかもしれない。
ただ過去の記録になっていく。
けれども亡くなったものは戻らない。

私はきっと今後もあの日を説明をする。
時間と共にあの日は段落をつけられて終わっていくかもしれないが
私たちにとってはあの日からなくしたものを持ってこれからをいくのだ。

5月に感じた温度差は時が経つにつれて幅を拡げているような気がした。


2011年10月28日
川村智美

2011年10月9日日曜日

40億円






















そのまま箱に入れていた遺品を整理し始める。
ちゃんと見ようとすると悲しくてやりきれない気持ちになる。


私の家がある地域には海の前に7mの堤防が建てられ、
そこから少し離れて4mの高さがある道路が作られるそうだ。
堤防と道路の間に人は住んではならない。が、特に行政が引き取ってくれるわけでもない。
ニュースで言っていたとおり、「死に土地」になる。

私の家やビニールハウスがあったところも道路や「死に土地」になることがわかった。

震災から一ヶ月経った四月のこと
被災地の復興・再生に真に役立つものとして義捐金40億円を
送られたら使い道をどうしますか。
と聞かれた。
その時は仮埋葬からお墓に移してあげることや
お葬式ができない人のための費用のことを考えていた。
仮埋葬から掘り起こすのに重機はいるし、スコップで掘る人員もいる。
今となれば、住まいが死に土地になってしまった人の住居だろうか。

お盆に帰ったときに会った近所の人に
父は「また戻ってきますから」と言うと
近所の人には「え?戻ってくるの?」と返された。

その土地から少しでも離れてしまうと
これまであったコミュニティもくずれていく。


先日、普段は東京に住んでいる同郷の方と会った。
その方の実家も津波の被害を受けて、ご家族は仮設住宅にいるらしい。
お互いの話をしていて涙が出てきた。
他の人はびっくりして「普段元気そうにしていたから(大丈夫だと思っていた)」と
言っていたけれど、自分でもコントロールができないくらいに
見えない穴に落ち込んでいく。
(これは病院に行くべきだろうかと少し悩んでいる)

徐々に回復していく街と残っていく喪失感
ただのイベント化されつつあるチャリティの何か
世のなかでは風化されつつある震災

40億円があっても見えない穴は埋まらないだろうなと思いつつ
この先のことを考える

2011年10月9日
川村智美