2011年9月11日日曜日

薄の日

母は農業という仕事でトマトを育てながら
四季に合わせて花を育てていた。
ビニールハウス脇の農道沿いと庭と門の前に
色とりどりのの花を育てていた。

玄関にはいつも生けた花がある。
母の影響かどうかはわからないが、
妹も生け花をしていた。

母は家の中にもちゃんと四季を持っていた人だ。
食べるものも空間も。

明日は中秋の名月ということなので
花を買った。

6年前の今日は母がちゃんとお月見の用意をしていた。
その日は家でお月見をせずに仙台にいたのだけれど。


2011年9月11日
川村智美
2005年9月11日


いつからか、「言葉」は形骸化していったように思う。
黙祷という言葉でさえも。

2011年9月8日木曜日

糸のようなものを持って書くこと
























何のために書いているのですか、と問われると
ちゃんと答えられない。

インターネット上で書かれた文字は
伝言ゲームのように続いていって、
書いた本人の思わぬところにたどり着く。

話の種のように思われるようでは
まったく家族のためにはなっていないだろう。

その日から逃げた私は
あれからずっと逃げているような気持ちになっている。
石巻に滞在して探している間も
仮埋葬のときも火葬の時もお葬式の時も


3月14日(月)のページ
ー遺体安置所には次々と
 自衛隊の車やトラックや自家用車で
 遺体が運ばれてきた
 自分の子どもを連れてきた夫婦もいた
 夫婦は職員に預けると崩れ落ちた

仙台に戻って石巻とのギャップについていけなかった。
石巻の家なのか道なのかわからない泥風景と
仙台のスーパーマーケットの異常な買い物風景。

ニュースでは奇跡的な救出を報じていた。
ボロボロでも意識不明でもなんとか救出されて
まだ生きていると信じていたので
毎日、一日中Googleにアップされる名簿を見て、
励まされながら、どこか引け目を感じながら過ごした。

おまじない。を書いて、再び石巻に行った。19日(土)のこと。
友人の車で途中まで送ってもらい、無事だった父の友人の家から自転車を借りた。
泥の中を歩いて初めて家の瓦礫をみつけた。
「これだ」と父は強く言った。
「ここにいるんだ・・・この下にいるんだ・・・かわいそうだぁ・・・」
父は崩れそうだった。
二人で瓦礫の中をもぐった。茶の間の時計が転がっている。

水が引いていくと見える景色が変わっていく。
注意があしもとからそれると、もっと見えるようになる。

父は14日から遺体安置所に通っていた。
遺体は泥をとってきれいにして、検死をし、写真を撮られる。
その写真が貼り出されるとやっと確認することができる。
その頃は運び込まれて大体三日くらいかかる。
父は前日に知っている6人を確認し、親戚に教えてあげていた。
体育館には安置する場所がなくなって、その日から元青果市場に移動した。
15:00、初めて写真が貼り出しがあり、二枚目は弟だった。

3月19日(土)のページ
ー新館1丁目
 溺水短時間
 顔傷だらけ
 水ぶくれしていない




今、私が生きてしていること、
何のためにしているのですか、と問われると
(たとえ糸のようでも)答えられる。
けれど、家族のためにはなっているのだろうか。
と思ってしまう。


2011年9月8日
川村智美
茶の間

2011年9月7日水曜日

その日から逃げた
























何かを生み出そうとするのはそこがゼロの地点だから。
何も持ってはいないが何も失っていないから、だと思う。


3月13日(日)のページ
ー晃弘友人Facebookからtwitter
 テレビの画像を見せてくれる
 安否確認名簿
 朱美友人 夫のtwitterで

叔父が赴任先の盛岡から石巻経由で家族がいる仙台に帰って来て、
石巻に行けることになった。

ガソリンがなくて行って戻られるかわからない頃。

叔父曰く、水が大街道まで来ていてとても実家まで行けなかった。と。
その話を聞いてもピンとこなかった。想像がまったくできなかった。

ラジオから流れる「みずほ幼稚園に24人が避難しています」
というニュースをずっと頼りにしていた。
その日の夜、友人が衛星写真を送ってくれた。
私の家があるところがすっかりなくなっていた。

翌日、先に母の実家の安否を確認しようと旧河南町へ寄った。

たぶん、引き寄せられて。
父がそこにいた。
そして父は会ってすぐ「だめだ」と言った。
母のお母さん・祖母はさっぱりわからないようだった。

家のほうへ行ってみると約1km手前までまだ水があった。
じゃぶじゃぶと入る。流されて分解された家の中を通り、
瓦礫をよけながらも道の半分も行けない。

途中、車を置いて遺体安置所となった体育館へ行方不明者として家族を登録しに行った。

夕方、父が身を寄せた内陸の親戚の家でこれからどうするか話し合う。
内陸の人は「この間より大丈夫だと思っていた」と言った。
沿岸部がどうなっているか、わかったような、そうでないような
この話を聞いてどうしたらよいかわからない
このショックをどう受け止めてよいかわからない、感じだった。
私自身も見たものが本当のことかよくわからなかった。
今必要なこと、水を汲んでくる、ガソリンの情報を手に入れる、
目の前のことをまずしなくてはならない。

私は目の前のことを受け入れられず、その日は叔父とともに仙台に戻った。

戻って来て言われたこと
「なぜ(すぐ石巻に行かずに)ずっと仙台にいたのか不思議だった」
「なぜ戻って来たのか」
「石巻にいるべきだ」

親戚の家は農家で食料も水もガスもなんとかなりそうだ
父以外に身を寄せている親戚がいて人を増やさないほうがいい
自分の装備は不十分で
電気があるところでgoogleにあがってくる名簿をチェックする
私はさまざまな言い訳をして戻った。

あの惨状をどう受け止めて止まれと言えるだろうと
見たことがない人に言われたくなかった。
でも、その通りで自分は逃亡してきた。現状から。

受け止められない自分を何もないところに一度置きたかった。
親戚や父の思いまで受け止められなかった。

受け止められずにえぐられた。
津波でけずられた大地にように。


たくさんの友人が諦めずに避難所を探そうと言ってくれたけれど
そのときには家族はみんな泥の下にいたのだ。

私はそこから逃げた。その日から逃げた。



2011年9月7日
川村智美

2011年9月6日火曜日

日常語からなくなる死








































二ヶ月走っていて、電池が切れた。
切れたついでにゴミ袋四袋分、部屋のものを捨てた。
二ヶ月走っている間に、家だった場所の泥はなくなり、
地元のお祭りは行われ、初盆をした。

ずっと違和感がある。
もうすでに何事もない住んでいる街と
人工的にきれいになっていく生まれたところ。

ここに生まれて人が住んでいて畑を耕していたという時間はなくなった。

ずっと違和感がある。
被災地のためにと生まれたものは何のためになっているのだろうか。
今、そこに生きていくひとのためか。

それとも、これを機会に生み出したもののためか。


私は津波にあわなかった。
身体感覚として津波がない。
家はなくなった。
流された家を探すのに毎日泥の中を歩いた。
流された家族を探すのに毎日遺体安置所に通った。
たくさんの写真を見た。
たくさん拝んだ。

死が日常語になった。

あるところでは水が引いて浮き上がってきた人を数えた。また
あるところでは玄関に流されてくる人を見続けた。という。


半年経過して、

たくさんのボランティアさんによる復旧が進み
たくさんの慰問と復興イベント。
仮設住宅が建てられ、それに伴う問題と
通常のニュースと


死は日常語から薄れていく。


私は津波にあわなかった。
あわずに失ったことが
人工的にきれいになくなった違和感に似てきている。


日常語からなくなる死と
何事もないような日々が風化させていっても、
私の手帳にはしっかり書かれてあって、でも
何事もないような日々に向かって
私は今これを書き続けるべきかどうか
何事もないような日々は時々躊躇させる。



2011年9月6日
川村智美