2011年7月11日月曜日

20:35























14:46
仙台。わたしはオフィスの共有スペースにいた。
大きい揺れ。
テーブルの下にもぐる。パパパッと電気が消えた。
本棚から本が、食器棚から食器が、机からはパソコンが、すべて落ちて
棚は倒れた。

揺れに悲鳴があがる。

仕事用のHDとMac bookを抱えて公園に避難した。

雪が降ってきて、またたく間に視界は白くなった。
その異様な白い光景が終わりの淵にいるかのようだった。

誰もが不安でいっぱいでパチンッと切れてしまいそうだった。

電話はつながらず、twitterを追った。
石巻にいる友人が「津波がきた」と言った。
「二階に避難している」と。
すぐに自分の住所あたりの情報を求めた。


オフィスに泊まることになって
20:35(頃)
母からのメールを受信した。
ああ、無事なんだと。
メールが来た、と私は喜んだ。

ラジオで荒浜で200人の遺体がうちあげられているというニュースを聞く。
石巻の友人は写真付きで実況を報告していた。

まったくどうなっているか、わからなかった。
ラジオやネットで知らされる状況に糸が張りつめていく。

母のメールは15:24に送られたものだと気づく。
それでも、まだ、その時は無事だと思っていた。思いたかった。

何もできずに、誰かの寝息を聞きながら暗闇に落ちていった。


翌日
電気は不通。
荒浜の方へ、状況を見にいった人から話を聞く。
ワンセグのテレビで津波の映像を見る。
石巻はまったく映らなかった。
安否確認が始まり、わからないものをわからせていく。
わかっていくものとわからないものの差が広がっていく。

電池式の充電器を借りて、アパートに戻る。
わからないことに折れて自分を立て直し始めた。
懐中電灯の明かりの中、情報を集めることに躍起になっていく。

まっくらな街の中、星がとてもきれいだった。




もう、メールをもらったときは流されていたのだった。
わたしはあの時から一週間、生きていることを信じていた。
かすかな希望と友人たちの助けによって支えられていた。
あの時があって今があることがからだの中に明確にある。


2011年7月11日
川村智美

2011年7月7日木曜日

15:52























14:46
大きく長い揺れ。何度も。
二階にいた弟は一階の祖父のベッドに向かい、
ビニールハウスにいた父は家に戻った。
家の中は物が倒れたりしたものの、
ガラスが割れたりすることはなく、
母は「おじいさんが建てた家は頑丈だねぇ」なんて言っていた。
父は民生委員をやっていたので近所のお年寄りの家を見回りに行った。

15:24
母は私にメールを送った。
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>地震大丈夫?
こっちは、すごっかった
朱美と晃弘いるから、うちに
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津波だとわかったときには遅かった。
目の前にあった工場で見えなかった。
朱美と一緒に二階に上がった
裕子とおばあさんと晃弘は(寝たきりの)おじいさんを
ほっとけなかったみたいだ



二階よりも高い波が


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ときて家ごと200メートル以上も先に流された。

家は流されながらバリバリと壊れた。
二階にいた父は妹の腕をつかんでいたが
波の中で何度も何度も回転しているうちに
はなれてしまった。

波がきて2、3秒のできごと。




葬儀が終わってから10日経った。
最後のひとりがみつかってから22日経った。
四人が骨になってから75日経った。
彼女の部屋を引き払ってから98日経った。
家のかけらをみつけてから110日経った。
大きな波が来てから118日経った。






手帳にいる私は止まった時計を抱えている。
瓦礫の中でみつかった時計は15:52で止まっていた。

2011年7月7日
川村智美