2011年12月31日土曜日

奥の底の























今日は(母方の)祖母を連れてお墓の掃除をしに石巻に行きました。祖母は旧河南町の北村という内陸部・山の中にお家があります。
母の弟と一緒に暮らしていますが、普段あまりいないので、足がなく
迎えに行ったら「墓参りに行きてぇ、行きてぇと思って言っても、行けねぇんだ」と
お墓参りに行けることで、心が少しだけ軽くなったような表情をしていました。
「(お墓で)待ってんだがらねぇ」と。
いつもですが、車中の話もお昼ご飯の話も娘である母のことばかりでした。
私の家は古くて厳しいしきたりみたいなものがあって、
母は(多分、うちに入った女性はみな)とても苦労しました。
ここ数年でやっと祖母に自由に会いに行けるようになっていました。
母と祖母にしかわからない話がたくさんあります。
その思い出話を聞いていました。

しきたりが生活習慣のようなもので、
身におぼえることができればよかったのかもしれないけれど
理由や過程がわからないルールみたいなものとしかとらえることができず、未だに
弟が家に戻らなければならず、そして戻ったばかりに、
津波にあってしまったことが悔しい
でもそれは責めることではない

一月一日は妹の誕生日です。
毎年、初詣に行きがてら、お昼ご飯は外食にして、帰りにケーキを買って夜に食べます。
初詣では私が妹と弟を誘って記念撮影をします。

二日には町内会の高校生や大学生による獅子舞が家に訪れます。
毎年、ビデオに撮っていました。
彼らが今、どこにいるかはわかりません。

今日は大晦日で、家に帰れず、父の顔を見ました。

年末は「実家に帰るの?」とよく聞かれるものですが
これから帰る家はどこになるのだろうか、と。

父は農家で農協の復興計画に関わることになり、もともと持っていた田んぼを埋め立てて
ビニールハウスを建てる準備を進めていました。

進んでいくものと立ち止まるもの。

父の顔を見ましたが、奥底は見ることができませんでした。
自分の奥底も見ることができません。


いつか、もう少ししたら、見ることができるでしょうか。


2011年12月31日 川村智美

3月16日に願っていたこと。おまじない

2011年12月7日水曜日

無言のピアノ























山形市で津波にのまれた石巻のピアノと会ってきた。
向井山朋子さんの「夜想曲」


ギャラリーはうっすらと津波のあとの匂いがする。
3月の石巻の匂いに似ている。


空間に2台のピアノ。
波にのまれたピアノにはずっしりと泥が堆積している。
泥は乾いて砂になっている。
何も言えなくなってから、何も言えないまま時間が経過している。

床に膝をついてピアノに顔を突っ込み匂いを嗅ぐ。
砂になった泥からはあの時の匂いがした。

脆く崩れやすくなった<あの時>の泥は
風化していく<あの時>のように、風が吹けば
どこかへ飛ばされてなくなるだろう

津波で流されたものはかつての日常であった。
泥の中でみつかった、のまれた日常。生きていた時間。

元に戻ることが復旧なのか、
移りゆく流れゆく日常で震災という言葉が終わっていく中で
<あの時>をピアノは無言で物語る。


私は津波にあいたかった。あって、わかりたかった。
足がなくなって横たわったピアノのそばであの時を思う。


見えない波にさらわれた私は
黒い水の闇の中にずっと手を伸ばしている。


2011年12月7日
川村智美

2011年11月8日火曜日

8ヶ月め
























11月の墓参り
お墓に語りかける自分がいた
自然に言葉が出る
「こんにちは」
「今日はひとりで来ました」
自然に言葉が出たことに少しびっくりした

墓参りのために来たのは初めてかもしれない
ようやく家族に会うためだけに来た

墓石を水拭きし、花を入れかえて、線香をあげる。
「またね」


また会いに来るからね



ごめんね


智美

2011年10月28日金曜日

思いに追いかけられながら、けれども景色は風化していく
























彼について
農家の長男であった彼は東京の大学に進学したあと家に戻ってこなくてはならなかった。
私は彼の才能を思えば、家に戻らなくていいと思っていた。
今年の春、卒業するはずだった彼は、私の意見よりも両親の強い想いで、
彼は大学の先生に引き止められながらも仙台の国立大学の大学院に進むことになった。
けれども大学の卒業式を前に彼は波に連れて行かれてしまった。
あの日は祖父が危篤にならなければ、まだ友人たちと九州を旅行していた。



10月の半ばに弟の大学の卒業式に招かれて行ってきた。
普段なら日本武道館で二回に分けて行われる卒業式は大学のホールで
規模を縮小して行われた。
大学にとって彼は卒業生8000人の中で唯一被災して亡くなった学生。
大学の先生たちとの懇談で
震災の時のことを話され、大変さから話題は戦時中のことになった。
被災は比較するものではないが、震災と戦時は同列にも並べられないと思う。
そして「卒業式で一段落したいと思ったんです」と言われた。
「これで一段落できます」と。表情は少し安堵していた。


彼が一緒に旅行をしていた友人から
「引き留めれば良かった」「くやしくてしょうがない」
という思いの伝言を渡された。
そして先生たちも
「彼が東京にいれば彼だけでも助かったのではないか」と言った。


彼を東京に引き留めておけば良かった。
彼らを家から逃がせば良かった。

その後悔をいちばんしているのはその場にいた父だ。
悔やんでも悔やみきれない。
私はそれぞれから「渡されたことば」を父に伝えていない。


街中の各所で、建物は取り壊しや改修工事が行われるようになった。
流された家のあとには茫茫と草が生えて、傷跡は見えなくなっていく。
街が復旧していけば震災から復旧していると見えるかもしれない。
ただ過去の記録になっていく。
けれども亡くなったものは戻らない。

私はきっと今後もあの日を説明をする。
時間と共にあの日は段落をつけられて終わっていくかもしれないが
私たちにとってはあの日からなくしたものを持ってこれからをいくのだ。

5月に感じた温度差は時が経つにつれて幅を拡げているような気がした。


2011年10月28日
川村智美

2011年10月9日日曜日

40億円






















そのまま箱に入れていた遺品を整理し始める。
ちゃんと見ようとすると悲しくてやりきれない気持ちになる。


私の家がある地域には海の前に7mの堤防が建てられ、
そこから少し離れて4mの高さがある道路が作られるそうだ。
堤防と道路の間に人は住んではならない。が、特に行政が引き取ってくれるわけでもない。
ニュースで言っていたとおり、「死に土地」になる。

私の家やビニールハウスがあったところも道路や「死に土地」になることがわかった。

震災から一ヶ月経った四月のこと
被災地の復興・再生に真に役立つものとして義捐金40億円を
送られたら使い道をどうしますか。
と聞かれた。
その時は仮埋葬からお墓に移してあげることや
お葬式ができない人のための費用のことを考えていた。
仮埋葬から掘り起こすのに重機はいるし、スコップで掘る人員もいる。
今となれば、住まいが死に土地になってしまった人の住居だろうか。

お盆に帰ったときに会った近所の人に
父は「また戻ってきますから」と言うと
近所の人には「え?戻ってくるの?」と返された。

その土地から少しでも離れてしまうと
これまであったコミュニティもくずれていく。


先日、普段は東京に住んでいる同郷の方と会った。
その方の実家も津波の被害を受けて、ご家族は仮設住宅にいるらしい。
お互いの話をしていて涙が出てきた。
他の人はびっくりして「普段元気そうにしていたから(大丈夫だと思っていた)」と
言っていたけれど、自分でもコントロールができないくらいに
見えない穴に落ち込んでいく。
(これは病院に行くべきだろうかと少し悩んでいる)

徐々に回復していく街と残っていく喪失感
ただのイベント化されつつあるチャリティの何か
世のなかでは風化されつつある震災

40億円があっても見えない穴は埋まらないだろうなと思いつつ
この先のことを考える

2011年10月9日
川村智美

2011年9月11日日曜日

薄の日

母は農業という仕事でトマトを育てながら
四季に合わせて花を育てていた。
ビニールハウス脇の農道沿いと庭と門の前に
色とりどりのの花を育てていた。

玄関にはいつも生けた花がある。
母の影響かどうかはわからないが、
妹も生け花をしていた。

母は家の中にもちゃんと四季を持っていた人だ。
食べるものも空間も。

明日は中秋の名月ということなので
花を買った。

6年前の今日は母がちゃんとお月見の用意をしていた。
その日は家でお月見をせずに仙台にいたのだけれど。


2011年9月11日
川村智美
2005年9月11日


いつからか、「言葉」は形骸化していったように思う。
黙祷という言葉でさえも。

2011年9月8日木曜日

糸のようなものを持って書くこと
























何のために書いているのですか、と問われると
ちゃんと答えられない。

インターネット上で書かれた文字は
伝言ゲームのように続いていって、
書いた本人の思わぬところにたどり着く。

話の種のように思われるようでは
まったく家族のためにはなっていないだろう。

その日から逃げた私は
あれからずっと逃げているような気持ちになっている。
石巻に滞在して探している間も
仮埋葬のときも火葬の時もお葬式の時も


3月14日(月)のページ
ー遺体安置所には次々と
 自衛隊の車やトラックや自家用車で
 遺体が運ばれてきた
 自分の子どもを連れてきた夫婦もいた
 夫婦は職員に預けると崩れ落ちた

仙台に戻って石巻とのギャップについていけなかった。
石巻の家なのか道なのかわからない泥風景と
仙台のスーパーマーケットの異常な買い物風景。

ニュースでは奇跡的な救出を報じていた。
ボロボロでも意識不明でもなんとか救出されて
まだ生きていると信じていたので
毎日、一日中Googleにアップされる名簿を見て、
励まされながら、どこか引け目を感じながら過ごした。

おまじない。を書いて、再び石巻に行った。19日(土)のこと。
友人の車で途中まで送ってもらい、無事だった父の友人の家から自転車を借りた。
泥の中を歩いて初めて家の瓦礫をみつけた。
「これだ」と父は強く言った。
「ここにいるんだ・・・この下にいるんだ・・・かわいそうだぁ・・・」
父は崩れそうだった。
二人で瓦礫の中をもぐった。茶の間の時計が転がっている。

水が引いていくと見える景色が変わっていく。
注意があしもとからそれると、もっと見えるようになる。

父は14日から遺体安置所に通っていた。
遺体は泥をとってきれいにして、検死をし、写真を撮られる。
その写真が貼り出されるとやっと確認することができる。
その頃は運び込まれて大体三日くらいかかる。
父は前日に知っている6人を確認し、親戚に教えてあげていた。
体育館には安置する場所がなくなって、その日から元青果市場に移動した。
15:00、初めて写真が貼り出しがあり、二枚目は弟だった。

3月19日(土)のページ
ー新館1丁目
 溺水短時間
 顔傷だらけ
 水ぶくれしていない




今、私が生きてしていること、
何のためにしているのですか、と問われると
(たとえ糸のようでも)答えられる。
けれど、家族のためにはなっているのだろうか。
と思ってしまう。


2011年9月8日
川村智美
茶の間

2011年9月7日水曜日

その日から逃げた
























何かを生み出そうとするのはそこがゼロの地点だから。
何も持ってはいないが何も失っていないから、だと思う。


3月13日(日)のページ
ー晃弘友人Facebookからtwitter
 テレビの画像を見せてくれる
 安否確認名簿
 朱美友人 夫のtwitterで

叔父が赴任先の盛岡から石巻経由で家族がいる仙台に帰って来て、
石巻に行けることになった。

ガソリンがなくて行って戻られるかわからない頃。

叔父曰く、水が大街道まで来ていてとても実家まで行けなかった。と。
その話を聞いてもピンとこなかった。想像がまったくできなかった。

ラジオから流れる「みずほ幼稚園に24人が避難しています」
というニュースをずっと頼りにしていた。
その日の夜、友人が衛星写真を送ってくれた。
私の家があるところがすっかりなくなっていた。

翌日、先に母の実家の安否を確認しようと旧河南町へ寄った。

たぶん、引き寄せられて。
父がそこにいた。
そして父は会ってすぐ「だめだ」と言った。
母のお母さん・祖母はさっぱりわからないようだった。

家のほうへ行ってみると約1km手前までまだ水があった。
じゃぶじゃぶと入る。流されて分解された家の中を通り、
瓦礫をよけながらも道の半分も行けない。

途中、車を置いて遺体安置所となった体育館へ行方不明者として家族を登録しに行った。

夕方、父が身を寄せた内陸の親戚の家でこれからどうするか話し合う。
内陸の人は「この間より大丈夫だと思っていた」と言った。
沿岸部がどうなっているか、わかったような、そうでないような
この話を聞いてどうしたらよいかわからない
このショックをどう受け止めてよいかわからない、感じだった。
私自身も見たものが本当のことかよくわからなかった。
今必要なこと、水を汲んでくる、ガソリンの情報を手に入れる、
目の前のことをまずしなくてはならない。

私は目の前のことを受け入れられず、その日は叔父とともに仙台に戻った。

戻って来て言われたこと
「なぜ(すぐ石巻に行かずに)ずっと仙台にいたのか不思議だった」
「なぜ戻って来たのか」
「石巻にいるべきだ」

親戚の家は農家で食料も水もガスもなんとかなりそうだ
父以外に身を寄せている親戚がいて人を増やさないほうがいい
自分の装備は不十分で
電気があるところでgoogleにあがってくる名簿をチェックする
私はさまざまな言い訳をして戻った。

あの惨状をどう受け止めて止まれと言えるだろうと
見たことがない人に言われたくなかった。
でも、その通りで自分は逃亡してきた。現状から。

受け止められない自分を何もないところに一度置きたかった。
親戚や父の思いまで受け止められなかった。

受け止められずにえぐられた。
津波でけずられた大地にように。


たくさんの友人が諦めずに避難所を探そうと言ってくれたけれど
そのときには家族はみんな泥の下にいたのだ。

私はそこから逃げた。その日から逃げた。



2011年9月7日
川村智美

2011年9月6日火曜日

日常語からなくなる死








































二ヶ月走っていて、電池が切れた。
切れたついでにゴミ袋四袋分、部屋のものを捨てた。
二ヶ月走っている間に、家だった場所の泥はなくなり、
地元のお祭りは行われ、初盆をした。

ずっと違和感がある。
もうすでに何事もない住んでいる街と
人工的にきれいになっていく生まれたところ。

ここに生まれて人が住んでいて畑を耕していたという時間はなくなった。

ずっと違和感がある。
被災地のためにと生まれたものは何のためになっているのだろうか。
今、そこに生きていくひとのためか。

それとも、これを機会に生み出したもののためか。


私は津波にあわなかった。
身体感覚として津波がない。
家はなくなった。
流された家を探すのに毎日泥の中を歩いた。
流された家族を探すのに毎日遺体安置所に通った。
たくさんの写真を見た。
たくさん拝んだ。

死が日常語になった。

あるところでは水が引いて浮き上がってきた人を数えた。また
あるところでは玄関に流されてくる人を見続けた。という。


半年経過して、

たくさんのボランティアさんによる復旧が進み
たくさんの慰問と復興イベント。
仮設住宅が建てられ、それに伴う問題と
通常のニュースと


死は日常語から薄れていく。


私は津波にあわなかった。
あわずに失ったことが
人工的にきれいになくなった違和感に似てきている。


日常語からなくなる死と
何事もないような日々が風化させていっても、
私の手帳にはしっかり書かれてあって、でも
何事もないような日々に向かって
私は今これを書き続けるべきかどうか
何事もないような日々は時々躊躇させる。



2011年9月6日
川村智美

2011年7月11日月曜日

20:35























14:46
仙台。わたしはオフィスの共有スペースにいた。
大きい揺れ。
テーブルの下にもぐる。パパパッと電気が消えた。
本棚から本が、食器棚から食器が、机からはパソコンが、すべて落ちて
棚は倒れた。

揺れに悲鳴があがる。

仕事用のHDとMac bookを抱えて公園に避難した。

雪が降ってきて、またたく間に視界は白くなった。
その異様な白い光景が終わりの淵にいるかのようだった。

誰もが不安でいっぱいでパチンッと切れてしまいそうだった。

電話はつながらず、twitterを追った。
石巻にいる友人が「津波がきた」と言った。
「二階に避難している」と。
すぐに自分の住所あたりの情報を求めた。


オフィスに泊まることになって
20:35(頃)
母からのメールを受信した。
ああ、無事なんだと。
メールが来た、と私は喜んだ。

ラジオで荒浜で200人の遺体がうちあげられているというニュースを聞く。
石巻の友人は写真付きで実況を報告していた。

まったくどうなっているか、わからなかった。
ラジオやネットで知らされる状況に糸が張りつめていく。

母のメールは15:24に送られたものだと気づく。
それでも、まだ、その時は無事だと思っていた。思いたかった。

何もできずに、誰かの寝息を聞きながら暗闇に落ちていった。


翌日
電気は不通。
荒浜の方へ、状況を見にいった人から話を聞く。
ワンセグのテレビで津波の映像を見る。
石巻はまったく映らなかった。
安否確認が始まり、わからないものをわからせていく。
わかっていくものとわからないものの差が広がっていく。

電池式の充電器を借りて、アパートに戻る。
わからないことに折れて自分を立て直し始めた。
懐中電灯の明かりの中、情報を集めることに躍起になっていく。

まっくらな街の中、星がとてもきれいだった。




もう、メールをもらったときは流されていたのだった。
わたしはあの時から一週間、生きていることを信じていた。
かすかな希望と友人たちの助けによって支えられていた。
あの時があって今があることがからだの中に明確にある。


2011年7月11日
川村智美

2011年7月7日木曜日

15:52























14:46
大きく長い揺れ。何度も。
二階にいた弟は一階の祖父のベッドに向かい、
ビニールハウスにいた父は家に戻った。
家の中は物が倒れたりしたものの、
ガラスが割れたりすることはなく、
母は「おじいさんが建てた家は頑丈だねぇ」なんて言っていた。
父は民生委員をやっていたので近所のお年寄りの家を見回りに行った。

15:24
母は私にメールを送った。
ーーーーーーーーーーーーーーー
>地震大丈夫?
こっちは、すごっかった
朱美と晃弘いるから、うちに
ーーーーーーーーーーーーーーー



津波だとわかったときには遅かった。
目の前にあった工場で見えなかった。
朱美と一緒に二階に上がった
裕子とおばあさんと晃弘は(寝たきりの)おじいさんを
ほっとけなかったみたいだ



二階よりも高い波が


 ーーーーーーーーーーーーーッ


ときて家ごと200メートル以上も先に流された。

家は流されながらバリバリと壊れた。
二階にいた父は妹の腕をつかんでいたが
波の中で何度も何度も回転しているうちに
はなれてしまった。

波がきて2、3秒のできごと。




葬儀が終わってから10日経った。
最後のひとりがみつかってから22日経った。
四人が骨になってから75日経った。
彼女の部屋を引き払ってから98日経った。
家のかけらをみつけてから110日経った。
大きな波が来てから118日経った。






手帳にいる私は止まった時計を抱えている。
瓦礫の中でみつかった時計は15:52で止まっていた。

2011年7月7日
川村智美

2011年6月16日木曜日

最後のひとり






















最後のひとりがみつかりました。
6月10日に発見。新館一丁目(有)○○○付近、瓦礫撤去中にて。C-2046
今年に入って、おじいさんは一時危篤状態だった。実は一番初めに諦めていた。
全然みつからなくて、この三ヶ月めに、葬儀に間に合わせるかのように
現れるところが遊び人のおじいさんらしい。

母の友人からのお手紙を読む。
葬儀に行けなくてごめんなさい。とあって、母の話が書いてあった。
母は「やまちゅう」と呼ばれていたらしい。
私が生まれたときは
「痛かったあー。もうお産なんて二度といやだぁ。」と言っていたそうだ。
でも私たちは三人姉弟になりました。

私たち三人はドライな関係ながらも毎年元旦には写真を撮った。
私が半ば強制的に撮らせていたようなものだが、二人ともわかっていた。
ただ今年が最後になるとは思わなかったけれど。


ーーー
 「足が痛い、腕が痛い」と体調はギリギリだったと思いますが、
 自分のことより子どもたちの心配ばかりしていました。智美ちゃんは
 「自分のやりたいことを見つけたようだけど、いつなくなってもおかしくないみたい、
  どうしよう」
 と暖かく見守っていました。

 長くなってしまってごめんなさい。もっともっと書ききれないくらいの
 たくさんの思い出をもらいました。
 今年の八月も三人で温泉に行きたかった。
ーーー

私が何を考えて何をしていたか、なんて伝わっていない。
作品は見てもらっても全くわかってもらえなかった。
かろうじて最近はいろんなものを引き合いに出して説明して
なんとなくわかってもらえて、でも結局心配だけさせて終わってしまった。

3月21日
(あえて)今日は春分の日でお彼岸、墓参りの日。そんでもって私の誕生日ですが、
みんな見つかったらお誕生日することにします。
と書いていた。

お母さんありがとう。

本当はたくさん泣いたほうがいいのだろうけれど
なかなかむつかしい

2011年6月16日
川村智美
memo

2011年6月13日月曜日

オロカについて





















母の友人から郵便物が届いた。
お香典と何枚かの便箋が入っているであろう厚い封筒。
私はその手紙を開けられずにいる。

三ヶ月、ずっと走っている。ような気がする。走らずにはいられない。でも
走っていることを言い訳にしっかり受け止めることをやめている。

とうとう「心の整理をしないとね」とまで言われてしまった。

整理をしないまま、遠くに置きながら、
ここで言葉を紡いでも、ただこの場が
家族や死を利用した自分の話になっているような気がする。
家族が望んでいるとは決して言えない。
家族の友人たちの困惑を招き、傷をこじ開けるようなことにもなっているかもしれない。
この場がそうであれば、私は今おろかな行為をしている。

ただただ走って
現実を見ないようにしている
オロカな目

家族や死への綴りが作為に結びつく
オロカな言葉

静かに想うことができないでいながら
家族について書いている
オロカな私

















片付けられない部屋の中で、

あの日によって新しく生まれたものがある。
会うはずがない出会いがあって、いつでも会えると思っている再会は必然になった。

私はオロカであっても、あの日生まれたものは大切にしたい。
当たり前のこと。あいさつをすること。だきしめること。
普段なら会わない人たちが、一緒になって働いていること。
ずっと大事にしている作品を体験してくれる人たちがいたこと。
私に音楽を届けてくれた人がいたこと。


2011年6月13日
川村智美
AKA

2011年6月1日水曜日

消費される喪失






















被災地で鎮魂のために踊ってもらうという企画がある
何カ所か場所を提案してほしい

という依頼があって
仲介者はその依頼への回答の報告がてら
「○○や○○、○○とか」
と津波がひどかった場所をあげ、そして
「あなたに言っていなかったけれど
 あなたの家の跡で踊ってもらうとか・・
 断ってもらってもいいけど」
と言った。
「もちろん断るつもりだよ」
即答した。

私と会話もしたことがない人にそんなことされたくない

泥と肥料と瓦礫がまざったその場所は
かつて家があって人がいたその場所は会場ではない。

津波が来たその時、
最後に見た風景は 音は 何をおもって往ったのか

怒りで涙が止まらなくなってしまった。


被災地のために
鎮魂のために
~のために

「~のために」を命題に
様々な長さの距離や温度差を持って人や企画が訪れる。
私は「大丈夫じゃなかった人」として
その度に、蓋をこじ開けて、失ったものについて説明をする。
繰り返していくうちに、内容は端的に伝わるように編集される。

「命題」や「慣れ」が「失ったもの」を消費していく。

失ったものについて知ってもらうことは必要かもしれない。でも
「大丈夫じゃなかった人」として生きるのはけっこう大変で
説明で喪失を認識しながらも
説明で喪失が軽骨になっていくような気がする。

私は「ふつうのひと」「大丈夫なひと」になりたいけれど
きっとそれは叶わないので

あの日をなくしては
あの日失ったものをなくしては生きてはいけない


2011年6月1日
川村智美
Homecoming

2011年5月22日日曜日

もう、よばない名前






















お坊さんに戒名を考えてもらうため、5人それぞれの人生についてまとめている。

祖父はまだ行方不明だが、三ヶ月経つと、死亡という扱いになるらしい。
三ヶ月はちょうど100ヶ日になり、それを区切りにお別れ会をしようか、となった。

仮埋葬の約一ヶ月後に火葬ができることになったが、
4人分は一日にできないので二日かかった。
仮埋葬は行政がしてくれるが、火葬をするために
掘り起こすのは自分でやらなくてはならない。
石巻で8時にクレーンを呼んで掘り起こし、仙台に戻って、葛岡斎場へ行く。

弔うには人手がいる力作業があって、お金もかかって、
システムがあって、何かの区切りを待って
なんだか淡々としている。

棺は大きな石がごろごろ混じった土の重みで壊れていた。
弟の棺からはまだ血が流れ続けていた。

あきひろはくやしかったろうね。
生きたかったろうね。
みんなに会いたくってしょうがなかったんだね。

とうとうと流れる血は東京から駆けつけてくれた友人たちへの
気持ちのような気がしてならない。

抱きしめたかったな。
いっぱいいっぱい抱きしめたかった。

あきひろ

あけみ

おばあさん

お母さん、おかあさん、おかあさん
もう、よばない名前


これからの名前のために生きた時間を想う。


2011年5月22日
川村智美
Mother

2011年5月12日木曜日

おやすみ、ジョン






















この原稿と向き合っているのは、あの日から二ヶ月後、
泥が干上がって、庭にいたジョンがみつかって、
それを一人で妹のガーデニングのシェベルで、
波で流された肥料やヘドロ、土と言えない土を
かき集めて埋めた日の次の日の今日。

私は家に帰ればジョンを撮る。

おやすみ、ジョン。
おやすみ、ゴンスケ。
おやすみ、ボス。
いろんな人にいろんな名前で呼ばれていた。

おやすみ。連れて行けなくてごめんね。
と言いながら最後に撮った。

私がカメラを向けているときは能面をかぶっているような、
自分の感情がいなくなっているような感じだ。

水が引いて、家だったであろう瓦礫を見つけた日、
父が「カメラを持ってきたか?」と聞いた。
私は「え?」と聞き返した。
父は「写真を撮れ」と言った。
「俺が助かったところと家とこの風景を撮っておけ」と。
「あそこと、あそこと撮っておけ」と・・・。

私は何も言わなかった。
けれども、カメラがあったから私は正気でいられたと思う。
カメラといってもiPhoneで、大きなレンズを持ってこの場所には入れない。
探すことに必死だった。
少しでも家の断片をみつけたかった。

私の中で確実に失ってできた空洞がある。
遠くのところに置いておいて、時々引っ張り出しては、撫でている。
この空洞は失ったものそのものだ。

かなしくもいとおしい。


2011年5月11日
川村智美
John